高等練習機 T-2 戦技研究用機
JASDF MITSUBISHI T-2 Blue Impulse

↑ T-2(19-5173) Gifu-Kakamigahara Air and Space Museum
(写真上)岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に保存・展示されているT-2 戦技研究用機(19-5173)
初代ブルーインパルスで長年使用されたF-86Fの老朽化に伴い二代目使用機として国産開発の高等練習機 T-2が採用され昭和56年(1981年)9月に 所要の改造を施したブルーインパルス用1号機が初飛行を行った。

亜音速機であったF-86Fに替わる国産超音速機によるアクロバット飛行は航空自衛隊の新しい時代を切り開くものとして各方面からも注目を集めた。 機体デザインは一般公募により女子学生案が選ばれたがF-86Fの純白なカラーとはかなりイメージが異り濃紺な2色のブルーを基調にしたものであった。 昭和57年1月12日にはT-2による部隊運用が正式にスタートし同年7月25日の松島航空祭でデビューを飾った。


↑↓ T-2(59-5111) Air Park Hamamatsu
(写真上/下)エアパーク浜松に保存・展示されているT-2 戦技研究用機T-2(59-5111)

浜松航空祭で起きた悲劇

しかし、T-2ブルーには想像も出来ない大きな試練が待ち構えていた。
T-2ブルーのデビューから間もない昭和57年11月14日、浜松航空祭においてアクロ飛行中のT-2が墜落事故を起こす。F-86F時代にも訓練中に ブルーインパルス機が墜落事故を起こした事はあったが公開展示飛行中としては初の事故であり日本中に大きな衝撃を与えた。 航空自衛隊の”顔”とも言うべきブルーインパルスの事故は防衛庁・自衛隊全体にも大きな影響をもたらした。浜松事故は創立以来、21世紀の今日に至るまで雫石事故と共に空自にとって最大の 悲劇だったと言えよう。

ブルーインパルスは昭和59年7月から本格的にアクロ飛行を再開したが平成3年7月4日には訓練飛行中のT-2が2機墜落しパイロット 2名が死亡する事故が発生した。この二つの事故は華やかに見えるブルーインパルスの飛行が実は死と隣り合わせの危険なものである事を痛感させたのである。 T-2ブルーは再び復活するが平成7年(1995年)12月3日、エアフェスタ浜松でのアクロ飛行をもってブルーインパルスから引退する(機体はその後も 暫らく現役で任務についていた)。墜落事故が起きた浜松で終焉を向かえたのは何かの因縁であろうか・・・


T-2ブルーインパルス仕様機

59-5111、59-5112、69-5128、99-5163、19-5172、19-5173
19-5174、29-5175、29-5176、29-5177

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太平洋の海鷲
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