自衛隊江田島地区で展示されている「甲標的」甲型は真珠湾攻撃に参加した5艇のうちの1艇で昭和35年(1960年)6月に真珠湾口より東方に約1.6kmのケーヒ礁湖付近の海底で沈没している 状態で米海軍により発見された。この甲標的は翌7月に引き上げられて米海軍により調査された。発見された際、2本の魚雷と自爆用爆薬は起爆可能状態だったとされる。この甲標的の 大きな謎が乗員2名の遺体が艇内に残されていなかった点だ。
この謎を解く手掛かりになりそうなのが同艇の司令塔ハッチが内部から閉められていなかった点だ。つまり搭乗員が2名とも外部に出ていた可能性がある。防潜網が艇に絡まった場合、 搭乗員が艇外に出て取り外す訓練も行われていた。あくまで推測ですがそのような事態が起きていたのかもしれない。昭和36年、日本に回航された揚陸艦「しれとこ」に搭載され里帰りした
なお、日本側の要請で引き上げられた甲標的は日本に返還される事になった。 日本への輸送は米海軍から海上自衛隊に供与された3隻の揚陸艦の日本回航を利用して行われる事になった。実際に甲標的を搭載したのは「しれとこ」であり昭和36年7月に 江田島で陸揚げされ展示品となり今日に至っている。
「甲標的」最初の生産型えある甲型は自己充電装置を持っておらず出撃前に母艦や基地で蓄電池を充電する必要があった。
甲型は真珠湾攻撃やシドニー、ディエゴスアレス奇襲で使用された。後に自己充電用デジーゼルを搭載した丙型が作られている。
平成23年12月にNHKで放映された”真珠湾からの帰還 軍神と捕虜第一号”で製作された特殊潜航艇「甲標的」の部分プロップが呉の大和ミュージアムで 展示されていました。真珠湾攻撃に参加した「甲標的甲型」を模して製作されていますが細部までよく再現されています。真珠湾攻撃に参加した甲型は秘匿の目的から 「特型格納筒」とも呼ばれていました。
(写真左左)
(写真左上)
操縦室内部。撮影上の便宜から実物より少し大きく作られている。
太平洋の海鷲