横須賀ヴェルニー公園内に所在する軍艦長門碑

横須賀市のヴェルニー公園内には日本帝國海軍や正岡子規に関する石碑が幾つか建立されており帝國海軍の象徴であった戦艦「長門」碑もあります。
「長門」は呉工廠で建造されたが竣工と同時に横須賀鎮守府に編入され終戦も横須賀で迎えるなど生涯を通じ横須賀とは縁が深い艦でもありました。

ヴェルニー公園公式サイト

碑文(表)

ありし日の聯合艦隊旗艦長門の姿をここに留めて昭和激動の時代を偲ぶよすがとする

昭和51年5月27日建立
(レリーフで描かれた艦容は一番煙突がS字型に湾曲した昭和初期のもの)

帝國海軍戦艦「長門」

(写真右)大正9年10月27日、宿毛湾外で公試運転中の戦艦「長門」

戦艦「長門」は日本帝國海軍が計画した空前絶後の艦隊拡張計画である八八艦隊の第1号艦として大正5年度計画で建造された。
建造所は呉海軍工廠で大正9年11月25日に竣工。 世界初の16インチ(正41糎)艦砲を搭載した大戦艦であり防御力も第一次大戦の戦訓を取り入れ在来艦に比べて大幅に強化されていた。速力も 26.5ノットと当時の戦艦としては高速であり同型艦「陸奥」と共に世界最強の戦艦として名実ともに昭和期日本海軍を象徴する存在であった。「長門」型は 数度にわたる改造で総合性能は竣工時に比べてアップしており特に昭和9年から11年に行われた大改造は艦容を一変するほど大規模なものであり無条約時代の 各国新型戦艦に匹敵する性能を得た。なお、この改造で戦艦「土佐」、「加賀」用に製作され工廠で保管されていた新型主砲塔に換装されている。

「長門」は大東亜戦争開戦時の聯合艦隊旗艦であった。しかし、航空機が主体となった戦いでは「長門」が活躍する場は少なく僅かに昭和19年6月のマリアナ沖海戦と 同年10月の比島海戦で奮戦するに留まった。大東亜戦争中、日本が保有した戦艦は12隻であったが8隻が戦没、3隻が大破着底状態であり昭和20年8月15日 時点では日本戦艦として唯一「長門」のみが海上に浮いていた。しかし、本土決戦に備えマストや煙突は撤去されるなど外洋航行能力は失われており更に20年7月の 米軍機の空爆で艦橋を破壊されるなど実質的な戦闘能力は喪失していた。因みに「長門」最後の艦長は日露戦争中の旅順閉塞作戦で有名な杉野孫七兵曹長の 長男・杉野修一大佐であった。

原爆実験クロスロード作戦で標的艦となった「長門」

ビキニ環礁で行われた原爆実験クロスロード作戦の記録映像

終戦後、「長門」はアメリカ軍に接収された。翌21年(1946年)7月にはビキニ環礁で行われる原爆実験クロスロード作戦の標的艦として使用された。同作戦には 「長門」と共に接収されていた巡洋艦「酒匂」やアメリカ軍の空母「サラトガ」、ナチスドイツ軍の巡洋艦「プリンツ・オイゲン」など約70隻の艦船が実艦標的として 集められていた。クロスロード作戦は7月1日に実施された第1次実験である空中爆発”エイブル”と同月25日に実施された第2次実験である水中爆発”ベーカー”の 2回行われた。エイブルでは「酒匂」など5隻が沈没したが「長門」の被害は軽微であった。続いて実施されたベーカーでは「長門」も大きな被害を受けたが容易には沈まず 日本艦艇の最後の意地を見せたが28日深夜から29日未明にかけて沈没したと推測される。

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