鹿屋で保存されているのは製造26号機と言われ世界中で現存する唯一の機体でもある。鰹節、という愛称がよく分かる機体形状であり戦後の海自飛行艇にも継承された優れたデザインである。
欧米では軍用飛行艇の歴史は事実上終わっているが日本、中国、ロシアでは今も大型飛行艇の開発・生産が続いている。ところで26号機は戦後、米軍に接収されバージニア州ノーフォーク海軍基地で 保存されていたが昭和54年に日本に返還され昭和55年7月から東京の船の科学館で展示されていた。その後、平成16年に鹿屋航空基地資料館に移管され現在に至る。 雨曝しの屋外展示で保存状態はあまり良いとは言えない。
発動機開口部には鳥対策から網が掛けられている。このままでは今後も老朽化が進行しやがては朽ち果てるのは確実な情勢だ。知覧の四式戦、岐阜の三式戦、愛媛南宇和郡の「紫電改」と同じく極めて貴重な歴史の生き証人であるので完全レストアのうえ、屋内展示に切り替えて欲しいところだ。
二式大艇は九七式飛行艇の後継機として川西航空機で設計された。
主任設計者は川西の逸材で九七式、「紫電」、「紫電改」などを手掛けた菊原静男。ユニークな外観から”鰹節”の愛称で親しまれた。欧米が軍用飛行艇から撤退した20世紀後半から21世紀にかけて
飛行艇開発は日本、中国、ロシアの事実上3ヶ国になっているが第二次大戦期はアメリカやイギリスも飛行艇を重視しPBY「カタリナ」、ショート「サンダーランド」などを多数配備していた。
二式大艇成功の鍵は長大な航続距離を持った事であろう。これにより広大な太平洋において多種多様な任務を行う事が可能となった。 主な任務は哨戒・偵察・対潜・輸送であったが、爆装や航空魚雷2本を搭載した対艦攻撃任務が付与されているのが日本製軍用機らしい。
陸上機への発展の可能性はなかったのか・・・仮に戦局が日本側に有利に展開し日本に更なる技術と生産能力があったならば米軍B24「リベレーター」のような 陸上重爆に発展する可能性も在り得た、と考えてしまうのは素人の浅知恵だろうか・・・。
なお、菊原技師は戦後、川西の後身である新明和工業で戦後型飛行艇PS-1やUS-1を開発する。
1)K作戦
昭和17年3月4日には真珠湾に対する爆撃(K作戦)も行った。この作戦には3機(1機喪失)の二式大艇が
参加し各機4発の250kg爆弾を投下した。実質的な戦果は確認されていない。
3)梓特別攻撃隊(第二次丹作戦)
昭和20年3月、ウルシー環礁に集結したアメリカ機動部隊を攻撃する為、梓特別攻撃隊(第二次丹作戦)が鹿屋基地より出撃した。同作戦において5機の二式大艇が24機の陸上攻撃機「銀河」の
誘導を行った。この作戦で「銀河」1機が米空母「ランドルフ」を撃破する戦果をあげた。
(写真左左/左)
上部銃座と側方銃座
太平洋の海鷲