二式大型飛行艇
KAWANISHI H8K

川西が開発した二式大艇は日本が誇る稀の傑作機だが損害も大きく戦争終結時に残存したのは僅か11機(稼働機4機)

二式大艇は九七式飛行艇の後継機として川西航空機で設計された。
主任設計者は川西の逸材・菊原静男。ユニークな外観から”鰹節”の愛称で親しまれた。20世紀後半から21世紀にかけて飛行艇は日本の独断場となった感があるが 第二次大戦期はアメリカやイギリスも飛行艇を重視しPBY「カタリナ」、ショート「サンダーランド」などを多数配備していた。 言うまでもなく飛行艇や水上機は滑走路がなくても運用出来るのが最大のメリットであり海軍国にとってはなくてはならない存在だったのである。 ところで二式大艇はそれら米英のライバルを凌駕する極めて優れた性能を有し第二次大戦型飛行艇としては最高の機体であったと断言出来る。
当時の日本では技術的難易度から大型4発機の開発はほとんど成功しなかったが九七式大艇と二式大艇は例外的な成功作となった。 二式大艇成功の鍵は長大な航続距離を持った事であろう。これにより広大な太平洋において多種多様な任務を行う事が可能となった。 主な任務は哨戒・偵察・対潜・輸送であったが、爆装や航空魚雷2本を搭載した対艦攻撃任務が付与されているのが日本製軍用機らしい。

陸上機への発展の可能性はなかったのか・・・

仮に戦局が日本側に有利に展開し日本に更なる技術と生産能力があったならば米軍B24「リベレーター」のような 陸上重爆に発展する可能性も在り得た、と考えてしまうのは素人の浅知恵だろうか・・・。

二式大艇が参加した主な作戦や有名エピソード

1)K作戦
昭和17年3月4日には真珠湾に対する爆撃(K作戦)も行った。この作戦には3機(1機喪失)の二式大艇が 参加し各機4発の250s爆弾を投下した。実質的な戦果は確認されていない。

2)海軍乙事件
昭和19年3月、連合艦隊司令長官古賀峯一大将、同参謀長福留繁中将らを乗せた2機の「晴空」が悪天候で遭難した海軍乙事件が発生する。
海軍乙事件はその後の海軍作戦に重大な影響を与えた”海軍黒歴史”だ。

3)第二次丹作戦 昭和20年3月、ウルシー環礁に集結したアメリカ機動部隊を攻撃する第二次丹作戦において5機の二式大艇が陸上攻撃機「銀河」で編成された攻撃隊の 誘導を行った。この作戦で「銀河」1機が米空母「ランドルフ」を撃破する戦果をあげた。

川西航空機が製造した二式大艇は131機、これとは別に輸送機型「晴空」が31機の計167機であった。 前記した通り二式大艇の性能は申し分なかったが戦争後半の戦局は本機のような大型機の活動を許さず大半の機体が喪失した。 菊原技師は戦後、川西の後身である新明和工業で戦後型飛行艇PS−1やUS−1を開発する。


海上自衛隊鹿屋航空基地史料館で保存展示中の日本帝國海軍の二式大型飛行艇一二型

鹿屋で保存展示中の二式大艇
鰹節、という愛称がよく分かる機体形状。戦後の海自飛行艇にも継承された優れたデザインである。他国では軍用飛行艇の歴史は事実上終わっているが日本では 今も発展が進捗している。

現存する唯一の機体だが保存状態は良くない。
二式大艇は日本航空機史上に残る稀の傑作機だが終戦まで生き残ったのは僅か11機(うち稼働機4機)だった。
鹿屋で保存されているのは製造26号機と言われ現存する唯一の機体でもある。26号機は戦後、米軍に接収されノーフォーク海軍基地で 保存されていたが昭和54年に日本に返還され東京の船の科学館で展示された。その後、平成16年に鹿屋航空基地資料館に移管され現在に至る。 雨曝しの屋外展示で保存状態はあまり良いとは言えない。知覧の三式戦や四式戦、愛媛南宇和郡の「紫電改」と同じく極めて貴重な歴史の生き証人であるので 完全レストアのうえ、屋内展示に切り替えて欲しいところだ。

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館


※要目は一二型
全幅 38.0m
全長 28.13m
全高 9.15m
自重 18.4t
発動機 火星×4
最高速力 465km/h
航続距離 約7.153km
兵装
・20粍旋回機銃×5 7.7粍旋回機銃×4
機外搭載兵装
・約2t(250s爆弾×8、もしくは航空魚雷×2)


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