人間魚雷「回天」

黒木博司海軍中尉の発想から生まれた帝國海軍初の必死兵器である「回天」

維新回天
人間魚雷「回天」は海軍機関学校出身の黒木博司海軍中尉の発想から生まれた必死兵器であった。
実は黒木中尉の発想以前より激化する戦局を挽回する為の人間魚雷の構想は若手士官たちの間で何度も検討されていたが必死作戦を厳禁する日本海軍の 伝統により許されず度々立ち消えとなっていた。

真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇「甲標的」も搭乗員の収容(生還)を前提にした兵器であった。 黒木中尉は「甲標的」講習員として倉橋島大浦崎に設置されていたP基地に配属されたが同室となった仁科関夫中尉(海兵71期)と共に九三式酸素魚雷の動力部を利用した 人間魚雷を提案したが当初は従来案同様に海軍上層部に拒否された。しかし、昭和19年に入ると2月のトラック島大空襲で海軍が大きな損害を受けるなど戦局は 一気に緊迫の度合いを増し海軍上層部も特攻兵器の開発を認めざるを得ない状況になり2月26日に正式に人間魚雷の開発がスタートする事となった。但し 搭乗員の脱出装置を装備する事が絶対要件とされていた。

同年4月には幾つかの特攻兵器の開発が本格化し黒木大尉(3月進級)提案の人間魚雷は”マル六金物”と呼称されるようになった。マル六金物の開発は急ピッチ で進められ7月6日には試作艇が完成、同月28日には試験航走が行われた。8月1日には「回天」一型として制式化されたが脱出装置は遂に装備される事はなかった。 なお、「回天」一型を大型化した「回天」二型、「回天」三型、「回天」四型も計画されたが「回天」二型と「回天」三型は計画が放棄され「回天」四型 のみが開発され終戦時に数基が完成していたが実戦には参加しなかった。つまり実戦参加したのは最初の生産型である「回天一型」及び小改良を行った 「回天」一型改一のみである。なお、九二式魚雷を改造した「回天」十型も試作されているがこちらは「回天」一型とは全く異なる代物であった。

機関部は九三式酸素魚雷を流用しているので燃料(ケロシン)と酸化剤(純酸素)を混合させ発生した水蒸気で機関を動かす。最高速力は30ノットであるが 現実的な運用では12ノット程度ではなかったかと推測される。12ノットの場合の航続距離は約78000mあった。炸薬量は一型で約1.8t、一型改一で 約1.65tであり命中すれば駆逐艦なら轟沈、大型艦艇でも致命傷を与える事が出来た。搭乗員は特眼鏡と呼ばれる小型の潜望鏡で敵艦(目標)を発見したら アナログ式計算機を使用してその敵艦の未来位置を予測し射角や航続距離、速力などのデータを入力して計算し「回天」をその位置まで操縦した。 その間は原則として特眼鏡を”降”の状態で潜航して航行、 敵艦に命中する直前およそ500〜1000m程度で再度、特眼鏡を”昇”として最終確認を行い再び深度を下げて航行し敵艦に突入する手はずだった。 なお、特眼鏡を”昇”の状態にして敵情を観測するのは浮上を意味するのではなく所謂、”露頂”となる。”露頂”は潜水艦では潜航状態だ。

戦争や特攻作戦の是非はともかく、国難に殉じた多くの英霊の純粋な精神は誰にも否定出来ない

(写真左)黒木博司海軍大尉
大正10年9月11日岐阜県生まれ、海軍機関学校51期。特殊潜航艇「甲標的」講習員になり人間魚雷を構想する。 必死兵器を厳禁する日本海軍の伝統の中で如何に戦局の悪化という事態があったとしても黒木大尉の強い情熱と信念、技術的な裏付けがなければ「回天」が 実現した可能性は薄かったかもしれない。昭和19年9月7日、徳山湾にて「回天」訓練中に殉職。遭難した「回天」には樋口孝大尉(海兵70期)も 同乗しており彼も殉職した。なお、黒木大尉と共に「回天」推進者であった仁科関夫中尉は「回天」初の作戦となった菊水隊によるウルシー泊地攻撃に参加し 戦死した。

殉職した黒木博司大尉が艇内で書き残した遺書

男子やも我が事ならず朽ちぬとも 留め置かまし大和魂 国を思ひ死なれる益良雄が 友々よびつ死してゆくらん

「回天」作戦(玄作戦)は9回実施された。

・菊水隊 ・金剛隊・千早隊・神武隊・多々良隊・天武隊・振武隊・轟隊・多門隊・神州隊

・菊水隊(参加母艦:伊号三十六、伊号三十七(未帰還)、伊号四十七)
・金剛隊(参加母艦・伊号五十六、伊号四十七、伊号三十六、伊号五十三、伊号五十八、伊号四十八(未帰還))
・千早隊(参加母艦:伊号三六八(未帰還)、伊号三七○(未帰還)、伊号四十四)
・神武隊(参加母艦:伊号五十八、伊号三十六)
・多々良隊(参加母艦:伊号四十七 、伊号五十六(未帰還)、伊号五十八、伊号四十四(未帰還)
・天武隊(参加母艦:伊号四十七、伊号三十六)
・振武隊(参加母艦:伊号三六七)
・轟隊 (参加母艦:伊号三六一(未帰還)、伊号三六三、伊号三十六 、伊号一六五(未帰還))
・多聞隊(参加母艦:伊号五十三、伊号五十八、伊号四十七、伊号三六七、伊号三六六、伊号三六三)

なお、終戦後の8月16日に10回目となる神州隊(母艦:伊号一五九)が出撃したが短期間で帰投している。
これら9作戦はいずれも伊号潜水艦を母艦とした洋上出撃作戦であった。「回天」作戦では「回天」の母艦である伊号潜水艦も未帰還となったケースが多く それに比べ戦果は乏しかった。結果から言えば失敗だったと断じざるを得ない。なお、本土決戦準備では多くの「回天」が沿岸部に構築されたトンネルに格納され 接近する敵艦を邀撃する予定だったが実戦に参加する事はなかった。

「回天」が撃沈した事が確認されているアメリカ艦艇

AO−59 MISSISSINEWA

(写真左)給油艦「ミシシネワ」
昭和19年11月20日、「回天」の実戦初投入となった菊水隊によるウルシー泊地攻撃で撃沈された。


DE−682 UNDERHILL

(写真左)護衛駆逐艦「アンダーヒル」
昭和20年7月24日、多門隊の攻撃によりエンガノ岬沖で撃沈



山口県周南市大津島に所在する回天記念館

周南市・回天記念館

山口県周南市・大津島に所在する回天記念館には精巧に再現された実物大レプリカの「回天」や貴重な資料・遺品が展示されています。 大津島は徳島港からフェリーで20分ほどかかりアクセスはあまりよくありませんが戦争や軍事史に関心のある方は必見の施設です。

回天記念館で保存展示されているレプリカ「回天」一型改一

回天記念館入り口に展示されている「回天」一型改一はレプリカですが細部まで精巧に再現されています。これとは別に徳山港の大津島行きフェリー乗船場には映画 「出口のない海」撮影で使用されたレプリカが展示されています。こちらの回天記念館のレプリカは映画撮影用とは別個のようです。

(写真上左)特眼鏡(小型の潜望鏡) 潜水艦の潜望鏡ですら敵艦の発見は困難だった。高さが低い特眼鏡での敵艦発見は至難であったろう。
(写真上中)艇中央部の上部ハッチと波きり版 。「回天」一型の波きり版は全周を囲むタイプだが「回天」一型改一は後部が開放されたタイプ
(写真上右)艇後部
(写真右)後方から見た「回天」
九三式酸素魚雷の特徴ある二重反転式プロペラもよく再現されている。


大津島にある「回天」関連遺跡、供養搭など

山口県周南市にある大津島は戦時中、「回天」訓練基地があった。 回天記念館の他にも当時を偲ばせる遺跡などが点在しておりこの島が特攻最前線であった事を今に伝える。

(写真上左)「回天」発射試験場
(写真上中)整備地区と発射試験場を連結するトンネル。 現在、小学校や宿泊施設がある場所には「回天」整備地区があった。
(写真上右)フェリー乗船場近くにある供養搭


徳島港フェリーターミナル前で展示されている映画「出口のない海」用レプリカ「回天」一型改一

徳島港フェリーターミナル前には映画「出口のない海」撮影で製作されたレプリカ「回天」一型改一が展示されている。こちらも回天記念館のレプリカ同様に精巧に 再現され高い完成度だ。両者には細部に差異があるので徳島にお出かけの際は御見学下さい。


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