靖國神社遊就館で保存展示されているC56型31号機関車(C5631)

C56型31号機は帝國陸軍がタイ・ビルマ間に建設した有名な泰緬鉄道に投入され戦後はタイ国鉄で使用された。昭和52年に引退し54年に同じくタイ国鉄で使用されていた C56型44号機と共に日本に返還された。

31号機は靖國神社遊就館で静態保存、44号機は大井川鉄道で動態保存されている。31号機は返還後暫らくは屋外展示 であったが今では遊就館内で屋内展示されている。ほぼ完璧にレストアされており屋内展示と合い間って非常に良好な保存状態である。31号機は塗装は日本国鉄 時代のものだが細部の仕様はタイ国鉄時代のままでその意味からも貴重な存在である。



製造 日本車両(昭和11年製)
軌間 1000mm、全長 14.325mm、幅 2.936mm、全高 3.900mm
重 量 37.63t(空重量34.27t),炭水車重量 27.90t(空重量12.90t)

遊就館のC5631はタイ国鉄時代の仕様のままで日本国鉄のC56とは装備などが異なる部分がある。連結器、テンダー上の枠組みなどはタイ仕様
(写真右)
運転席右側。レールをデザイン化したものは帝國陸軍鉄道連隊の部隊マーク。”七”は抽出元の七尾機関区を示す。31号機を製造した日本車両製造のプレート版も健在

(写真右右)
操縦席内部の様子



軽量小型で操縦・整備性良好な中型テンダー機、C56は軍用機関車として最適であった

大東亜戦争中、南方の輸送力を強化する目的から160両製造されたC56型蒸気機関車のうち90両が徴用されタイ・ビルマ方面に送られた。

軽量の中型テンダー機であったC56は操縦・整備性ともに良好で南方の簡易路線でも運用出来る点が評価された。軍用機関車として最適であったのである。 後方視界を確保する為、テンダー両脇が切りさきがあるのも好都合であった。

C5631は日本国鉄機標準装備の排煙板が省略されているがこの措置は戦時中の泰緬鉄道時代からのようだ。また、車体前部のガードレールも同じく戦時中 からの装着でこれらは泰緬鉄道開通式の31号機の写真からも確認出来る。

なお、日本国鉄の軌道幅は1067mmだがタイ国鉄では1000mm。31号機は返還後もタイ時代のまま1000mmになっている。



ビルマ戦線維持の為、突貫工事でタイ・ビルマ間に建設された泰緬鉄道

日本帝國陸軍の驚嘆すべき強い実行力

泰緬鉄道はビルマ・タイ間の輸送力を強化する為に帝國陸軍が建設した。 西の最前線であったビルマ戦線維持の為、泰緬鉄道は必要不可欠な幹線鉄道でありビルマ占領直後の昭和17年7月より工事が始まり僅か1年3ヶ月あまりの超突貫工事で翌18年10月には完成した。

帝國陸軍は硬直した官僚組織であり員数主義が蔓延っていた旧態依然とした時代遅れの集団、とマイナス的見解で評価される事が多い。一方で実現不可能と思われるような 難関計画を実際に達成してしまう強い実行力を持った組織であった事が泰緬鉄道建設からも理解出来る。

当時、世界最高水準にあった帝國陸軍鉄道連隊の技術力

作業には帝國陸軍の鉄道建設部隊である鉄道第五連隊と鉄道第九連隊が中核となり約6万の連合軍捕虜や募集に応じた現地労働者10万人などが参加。 作業現場は極めて危険かつ劣悪で多数の犠牲者や傷病者を出した。この事から当時の帝國陸軍鉄道連隊の技術力は劣っていたかのような誤まった評価がある。

しかし、 当時の鉄道連隊の技術力は世界水準に達するほど高く、それ故に常識では考えられないような短期間でジャングルを切り開き大河に橋梁をかけ泰緬鉄道を貫通させる事が 出来たのである。

なお、余談であるが著名な戦争映画「戦場にかける橋」では捕虜となったイギリス軍が泰緬鉄道建設に協力(特に技術面ではイギリス軍将校が 主導権を握っていたかのような演出)しクワイ河橋が完成した、と描かれている。まるでイギリスの鉄道技術が帝國陸軍鉄道連隊のそれを上回っていたかのような表現 であるが実際には日本側技術の方が遙かに英側を凌いでいた。

実際の工事でも連合軍捕虜は単純な労働に従事していたのであり技術面は全て日本側の担当であった。 泰緬鉄道は重要な補給路であり連合軍も激しい空爆を加えており日本側の修理工事とイタチゴッコだった。

戦後、多くの鉄路が廃線となったが一部は今もタイ、ミャンマーで現役路線として使用されている。

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