横須賀市の沖合いに所在する猿島は軍事上の要地であり江戸時代末期には早くも台場が設置されていた。 明治10年には海軍管轄となったが同14年以降は陸軍の管轄となり要塞が建設され東京湾防衛の一翼を担っていた。陸軍砲台としては二十七糎加農、二十四 糎加農が装備されていた模様。両加農はそれぞれ幾つかの型式がありどの砲が配備されていたのかは不明である。
大正12年に発生した関東大震災で大きな被害を受け陸軍は 要塞を放棄、後に海軍に移管され大東亜戦争中には高角砲が配備された。戦争末期には八糎高角砲(三年式八糎高角砲か?、或いは陸軍の八八式七糎 野戦高射砲か?)が4門、八九式十二糎七高角砲(連装)が2門、配備されていたようである。陸軍時代の猿島砲台が実戦参加する事はもちろんなかったが海軍時代の 猿島高角砲部隊は大東亜戦争末期、横須賀方面に来襲した米軍機と交戦したと伝えられている。