横須賀の光心寺にある軍艦比叡鎮魂碑/戦没者供養搭

横須賀市衣笠に所在する光心寺には大東亜戦争で戦没した戦艦「比叡」乗員の為に建立された軍艦比叡鎮魂碑と軍艦戦没者供養搭があります。

(写真左)
忠魂祠堂
(写真中)
軍艦比叡忠魂碑
軍艦比叡戦没者供養搭


帝國海軍戦艦「比叡」

イギリスの最先端造艦技術を取得する目的でヴィッカース社に発注された「金剛」 同型艦3隻が国内建造された

イギリス海軍が日露戦争の戦訓などを踏まえて建造した単一巨砲戦艦「ドレッドノート」の竣工は世界に衝撃を与えた。
「ドレッドノート」の誕生にはイギリス海軍第1本部長フィッシャー大将の鋭い先見があった。フィッシャーは日露戦争以前から単一巨砲艦の構想を持っていたのである。 「ドレッドノート」は前ド級戦艦の約2倍の戦力を有していた。 当時、日本は戦艦や巡洋戦艦の国産化を開始していたが「薩摩」や「安芸」、「伊吹」といった初期国産艦は「ドレッドノート」の前にたちまち旧式化し戦力価値を 大きく低下させてしまう事態となった。そこでイギリスのヴィッカース社に超ド級艦を発注しイギリスの最先端造艦技術の取得を目指す事となった。 この超ド級艦は同じヴィッカース社がオスマントルコ帝國の発注で建造していた戦艦「レシャアディエフ」(後にイギリス海軍に編入され「エリン」と改名)を ベースに設計された。「エリン」は34センチ連装砲搭5基を搭載し出力は26.000馬力、速力21ノットであったが日本の超ド級艦は主砲塔は4基に減じた代わりに 出力は64.000馬力にアップされ速力も27.5ノットとかなり優速であった。

イギリス海軍戦艦「エリン」

この日本初の超ド級艦は一等巡洋艦(後に巡洋戦艦に種別変更)「金剛」と命名され大正2年(1913年)8月16日に竣工した。 「金剛」は日本帝國海軍の戦力を一気に近代化させたが同時に高速力と36糎砲の採用は他国の海軍にも大きな影響を与えた。 実は「金剛」の設計にあたっては主砲を50口径30糎砲にすべきか、それとも45口径36糎砲を採用するべきかで海軍部内の意見が分かれていた。 激論の末に45口径36糎砲が採用されたがこれが本クラスの運命を決定するものとなった。ただ、イギリス海軍をはじめ列強諸国は戦艦の主砲に14インチ砲を 採用する機運が生まれていたと言われており時勢は36糎砲に傾いていた、と言える。仮に30糎砲を採用していれば日進月歩の軍事技術の発展競争で 遅れを取り第二次大戦期では全く戦力価値を失っていたであろう。36糎砲を搭載した「金剛」は竣工当時、世界最強クラスの超ド級艦でありそれから 30年経った大東亜戦争中においても極めて有力な艦艇であった。

海軍では「金剛」の同型艦3隻を日本国内で建造する事として海軍工廠/民間造船所で建造した。
金剛英ヴィッカース社大正2年(1913年)8月16日竣工
比叡横須賀海軍工廠大正3年(1914年)8月4日竣工
榛名神戸川崎造船所大正4年(1915年)4月19日竣工
霧島三菱長崎造船所大正4年(1915年)4月19日竣工

「金剛」型2番艦の「比叡」、日本国内で建造された初の超ド級艦

「比叡」は明治44年(1911年)11月4日に横須賀海軍工廠で起工された。
本艦は帝國海軍の艦艇として「比叡」の名を冠した2代目で大正元年(1912年)11月22日に進水、進水式には大正天皇も臨席されている。 そして大正3年(1914年)8月4日に竣工したが「比叡」は日本国内で建造造された初の超ド級艦となったのである。 既に大型艦艇の建造実績があった横須賀工廠での「比叡」建造は順調だったと伝えられる。


竣工時の「比叡」要目
常備排水量 27.500t
全長    214.6m
幅     28.04m
吃水    8.36m
主機/軸数  高低圧二軸伴結バーソン式タービン4基/4軸
ボイラー  イ号艦本式(混焼)36基
速力    27.5ノット
兵装
・毘式36糎砲4連装4基、四一式十五糎砲単装16基、四一式八糎高角砲4基 五十三糎魚雷発射管(水中式)8門
乗員数 1221名

「金剛」型は昭和2年から4年にかけて第1次近代化工事に着手された。この改造は第一次世界大戦、特にジュットランド沖海戦の戦訓から防御力強化が最重要視され 速力低下はあまり問題とされなかった。本来、巡洋戦艦として計画された「金剛」型は火力は強力だが防御力には一抹の不安があった。 この改造により機関の換装や装甲の強化が実施されたので重量が増大し速力は26ノットに低下した。 速力低下の結果、本クラスは巡洋戦艦から再度の種別変更で戦艦となった。「比叡」は同型艦4隻の中でもっとも遅く昭和4年10月から工事が着手されたが翌5年の ロンドン海軍軍縮条約の結果、日本の戦艦保有数が9隻に制限され「比叡」の改造工事は中断され廃棄される危機となった。しかし、主砲塔1基を減じ副砲を全廃、 更に舷側装甲板の撤去、機関も缶数を減らして速力を18ノットとするなどして練習戦艦に改造する事で保有が認められた。


練習戦艦へ改造時の「比叡」要目
基準排水量 19.500t
ボイラー  ロ号艦本式大型2基、重油専焼式小型3基、ロ号艦本式混焼6基
出力    16.000馬力
速力    18ノット
兵装
・毘式三十六糎砲連装3基、四一式八糎単装高角砲4基

「比叡」の練習戦艦への改造は昭和6年7月1日より呉海軍工廠で開始され昭和7年12月31日に工事を完了、昭和8年1月1日付けで練習戦艦となった。
練習戦艦になった事で艦隊スケジュールから外れた「比叡」はお召し艦として非常に好都合な存在となりお召し艦用施設工事が実施され度々お召し艦や統監艦 の栄誉を担った。以下は練習戦艦「比叡」がお召し艦/統監艦を務めた事例

大演習観艦式(横浜沖) 昭和8年(1933年)8月16日〜25日・・・お召し艦/統監艦
満州国皇帝来日時 昭和10年4月6日〜23日・・・お召し艦
鹿児島宮崎両県下行幸  昭和10年(1935年)11月6日〜21日・・・お召し艦
特別海軍大演習観艦式(神戸沖) 昭和11年(1936年)10月20日〜29日・・・お召し艦/統監艦

ロンドン条約の失効により強力な高速戦艦へ改造

昭和11年末にロンドン海軍軍縮条約が失効した事を受け海軍は「比叡」を強力な高速戦艦に改造する為の工事を昭和12年4月1日より呉海軍工廠で開始した。 海軍では条約失効後に「比叡」の戦艦復帰をあらかじめ決定しており既に練習戦艦時代から前楼の近代化や旧式の八糎高角砲から新型の八九式十二糎七高角砲に 換装するなどの準備を進めていた。国力に限界がある日本ではたとえ一艦と謂えど無駄には出来ず当然の措置であった。「比叡」では他の「金剛」型が2回に渡って 行われた近代化改造を実質的に1回の工事で行う事となったが同型艦の第2次改造 が終了する頃に工事が着手された為にそれらの実績を取り入れ更には「大和」型戦艦建造に伴う試験的な意味合いもあり「金剛」型4艦の中でも最も近代化の 進んだ改造内容となった。他の「金剛」型とは異なり前楼トップに方位盤を備えるなど「大和」型の印象を彷彿とさせる。 なお、高速戦艦とは通称であり正式な分類は戦艦であった。 この改造工事は昭和15年1月31日付けで終了した。


近代化大改造後の「比叡」要目
基準排水量 32.156t
公試排水量 37.000t(計画)
全長    222m
幅     31.97m
深さ    15.5m
吃水    9.37m
主機/軸数  艦本式減速タービン4基/4軸
ボイラー  ロ号艦本式重油専焼缶8基
出力    136.000馬力
速力    29.7ノット
兵装
・毘式三十六糎砲連装4基、四一式十五糎砲単装14基、八九式十二糎七連装高角砲4基、九六式二十五粍連装機銃10基、ホ式十三粍機銃4連装2基
射出機   1基(呉式二号三型)
艦載機
・水上偵察機 3機
乗員数   1222名

帝國海軍最後の観艦式でもお召し艦の栄誉を担った「比叡」

帝國海軍最後の観艦式となった紀元二千六百年特別観艦式においても戦艦に復帰したばかりの「比叡」はお召し艦の栄誉を担っている。

紀元二千六百年特別観艦式(横浜沖) 昭和15年(1940年)10月11日 ・・・お召し艦


大東亜戦争中の戦艦「比叡」

昭和16年9月10日、西田正雄大佐が「比叡」艦長として着任する。
ハワイ作戦に参加する為、機動部隊の一員(第三戦隊、僚艦「霧島」)として択捉島単冠湾に終結し11月26日に出港。作戦中は空母部隊を護衛しつつ 12月23日に柱島に帰投。 以後も機動部隊と共に行動し17年1月にはラバウル攻略、2月から3月にはジャワ攻略戦に参加した。3月1日には機動部隊の至近距離で捕捉した 米駆逐艦「エドソール」を友隊と共同で撃沈したが砲撃の命中率は芳しくなかったと言われている。 6月のミッドウェイ海戦では近藤信竹中将指揮の攻略部隊に編入された(第三戦隊、僚艦「金剛」、指揮官は三川軍一中将)。 ミッドウェイ作戦が中止の後はそのまま北方部隊の支援を行った。8月の第二次ソロモン海戦では前衛部隊として参加。10月の南太平洋海戦でも同じく前衛部隊 として参加するなど休む間のなく太平洋を東西南北縦横に巡る転戦ぶりであった。

「比叡」を含む「金剛」型は「大和」以下の戦艦群に出撃の機会がほとんどない 中で常に第一線で奮戦した。その最大の要因は本クラスの高速力にあった。第2次大戦では日本だけでなくイギリスでもドイツでも速度性能に優れた高速戦艦が 活躍した。ナチスドイツ海軍の巡洋戦艦「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」も高速力があったればこそあれだけの活躍が出来たのだ。 防御力はもちろん重要だがっそれ以上に速度性能こそが戦艦の戦力価値を決めた事は歴史が証明している。「比叡」は17年11月9日、阿部弘毅中将を指揮官とする 挺身攻撃隊の旗艦としてトラック島を出撃しガダルカナル島の米軍ベーダーソン飛行場砲撃に向かったが12日夜半から13日未明にかけて発生した第三次ソロモン海戦で カラガン少将率いるアメリカ艦隊と交戦、敵艦隊に甚大な損害を与えたが自らも大損害を受け自沈した。旗艦である「比叡」は日本海軍夜戦の伝統に従い 敵艦隊への探照灯照射を行ったが敵艦隊の集中攻撃を受けてしまったのだ。日本軍の猛攻でアメリカ艦隊は事実上、壊滅したが日本軍挺身攻撃隊の ベーダーソン飛行場への攻撃は失敗に終わった。「比叡」は大東亜戦争において帝國海軍初の戦艦喪失となった。「金剛」型の中でも最も近代化された「比叡」が戦争 序盤で失われた事は以後の戦局を考えても非常に悔やまれる事態であった。


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