山田記念病院で展示中の駆逐艦「初霜」の主錨

東京都墨田区石原に所在する山田記念病院玄関付近に日本帝國海軍の駆逐艦「初霜」の主錨(アンカー)が展示されています。
同院の開設者である山田正明初代院長が帝國海軍の軍医であり「初霜」軍医長を勤めた縁からだそうです。

この主錨はホールス型と呼ばれるタイプでアンカー・チェーンも付随している。21世紀の今日、東京の街中で帝國海軍の武勲艦の主錨が健在なのは実に 感慨深い。歴史の貴重な生き証人の保存に尽力された山田海軍軍医に心からの敬意を表したい。


山田記念病院


帝國海軍駆逐艦「初霜」

ロンドン海軍軍縮条約の制約から生まれた「初春」型

昭和5年に締結された巡洋艦や駆逐艦などの補助艦艇の建造を制約するロンドン海軍軍縮条約は日本海軍の建艦計画にも大きな影響をもたらした。
この条約により駆逐艦は主砲口径5インチ以下、排水量は1.850t以下に制限。また、日本駆逐艦の合計排水量は10万5500tに制限されることとなった。 日本海軍ではその高性能から米英両国を驚嘆させロンドン条約の要因となった駆逐艦「吹雪」型(基準排水量1.680t)を280tも軽量化した1.400t級の 駆逐艦「初春」型を計画した。
しかし、本クラスの兵装は 12.7糎砲5門、次発装填装置付3連装61糎魚雷発射管3基を装備し速力36ノットと主砲が1門減少した以外は「吹雪」型に匹敵する重装備・高性能駆逐艦であった。 だが、非常に無理をした設計である事は誰の目にも明白であり重心が高くトップヘビーの傾向が顕著で復元性は極めて悪かった。

「初春」型は当初、12隻建造が 予定されていたがネームシップ「初春」が竣工した半年後の昭和9年3月に水雷艇「友鶴」事件が発生、「初春」型の建造は6隻(「初春」、「子日」、「若葉」、 「初霜」、「有明」、「夕暮」)で打ち切られ7番艦以降は設計を改めた「白露」型として建造される事になる。「初春」型も「友鶴」事件を教訓とする改造が行われ 排水量を約380tほど増加させ魚雷兵装を3連装発射機2基に軽減するなど復元性を向上させ速力も33ノットに低下している。この改造により高性能を狙った 「初春」型はかなり平凡な性能の艦となったが実用性は却って高くなった。

大東亜戦争全期間を通じ奮戦した歴戦の武勲艦「初霜」

「初霜」は「初春」型4番艦として昭和9年9月27日に浦賀船渠にて竣工した。
水雷艇「友鶴」事件の教訓による復元性向上工事は「初春」、「子日」の2隻は竣工後に実施されたが本艦を含む他の4隻は建造中に実施された。

大東亜戦争開戦後はケンダリー、マカッサル、バリ攻略戦などに参加。
昭和17年5月にはアッツ島攻略戦に参加し以後は主に北方水域で活動。18年3月にはアッツ島沖海戦参加、 同年7月にはキスカ島からの撤収作戦”ケ号作戦”に参加し陸海守備隊約5200名の救出に成功した。19年に入ると南方方面に展開しトラック島やサイパン島方面 への輸送船団などの護衛に従事。

同年6月にはマリアナ沖海戦に参加。10月には比島マニラ方面への輸送任務に従事するが米軍機の攻撃で損傷。20年4月6日から7日にかけて帝國海軍最後の 艦隊出撃となった天一号作戦に参加し「大和」、「矢矧」などと共に沖縄へ向け特攻出撃、来襲する米軍機と死闘を展開したが無傷で佐世保に帰還した。 以後、舞鶴方面に回航されたが7月30日には宮津湾にて敵機が空中投下した機雷に触雷し大破着底し戦力価値を喪失した。

「初霜」は「雪風」や「時雨」に匹敵する大東亜戦争期の武勲艦であり着底したとはいえ終戦時に残存した唯一の「初春」型でもあった。

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太平洋の海鷲

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