重巡洋艦「青葉」の五十口径三年式二○糎砲

(写真上)大和ミュージアムで保存展示中の巡洋艦「青葉」の五十口径三年式二○糎砲

大和ミュージアムで保存展示中の五十口径三年式二○糎砲は重巡洋艦「青葉」の3番主砲塔右砲(うほう)で昭和17年10月11日のサボ沖海戦で「青葉」が 損傷した際、同砲も被爆し取り外され終戦まで呉海軍工廠で保管されていた。修理後の「青葉」には別の砲身が搭載された。

五十口径三年式二○糎砲は重巡洋艦「古鷹」型より搭載され「青葉」型や「妙高」型、空母「赤城」や「加賀」にも搭載されている。当初は正20糎(7.9インチ) であったが、後に威力を増大させた正8インチ(203.2mm)の五十口径三年式二号二○糎砲が開発され重巡洋艦「高雄」型より搭載されている。 初期型である正20糎も砲身をボーリングして正8インチに増大させたものもある。大東亜戦争開戦までには「古鷹」型や「青葉」型、「妙高」型の正20糎砲も 二号砲や正8インチに増大させた砲に換装されていたと思われる。

(写真上)サボ沖海戦から帰還した「青葉」 ブーゲンビル島ブイン基地で撮影された姿
帝國海軍重巡洋艦「青葉」
大正12年度計画で建造された巡洋艦「古鷹」型は平賀譲造船大佐の設計による日本建艦史に残る艦艇であった。

当初、「青葉」型も「古鷹」型3,4番艦として計画されていたが平賀大佐の思想とは異なる用兵側の運用視点から幾つか計画変更が行われた。最大の変更点は「古鷹」型 の主砲が単装6門だったのに対して「青葉」型は連装6門に改められた事である。単装20糎砲は給弾の一部を人力に頼っていたが連装20糎砲は大幅に機力化された 給弾システムを採用しており安定した発射速度を維持出来た。また、「古鷹」型の八糎高角砲に対して「青葉」型は四十五口径三年式十二糎高角砲を搭載し対空戦闘能力 を向上させた。「青葉」型は改「古鷹」型という性格であった。
「青葉」、「衣笠」は昭和12年頃から15年頃にかけて実施された佐世保海軍工廠における近代化改造で戦闘能力を大幅に向上させている。 主砲は往来の正20糎砲から正8インチ砲である五十口径三年式二号二○糎砲に換装、魚雷も八年式魚雷から九三式酸素魚雷に換装された。

大東亜戦争開戦後は常に 第一線にあり昭和16年12月にはグアム、第二次ウェーク島攻略作戦に参加。翌17年1月から3月にかけてラバウル、ラエ、サラモア、ブーゲンビル攻略作戦に参加。 17年5月には攻略部隊主隊の旗艦(司令官:五藤存知少将)として珊瑚海海戦に参加。8月7日にはガダルカナル島に侵攻して来た米軍を撃滅すべく 第八艦隊(司令長官:三川軍一中将)の一員として同島方面に突入して奮戦し友隊と共同で敵重巡洋艦4隻を撃沈、1隻を大破させる大戦果をあげる(第一次ソロモン 海戦)。

しかし、「青葉」にとって生涯最高のその栄光の日から僅か2ヵ月後の10月11日、サボ沖海戦においてアメリカ艦隊の優勢な レーダー射撃により「青葉」は大破し座乗していた第六戦隊司令官・五藤存知少将が戦死した。その後、呉工廠において修理され艦隊に復帰したが18年4月3日には カビエン付近で爆撃で損傷、再び呉工廠にて修理。
18年11月、第一南遣艦隊に編入され19年に入るとシンガポールやペナン方面で輸送任務などに従事。 19年10月21日にはレイテ島に来襲したアメリカ軍を撃退する為の捷号作戦に参加、当初はスリガオ海峡からレイテ湾に突入する予定であったが陸軍部隊輸送任務の為、 マニラ方面に移動。23日、マニラ湾口にて敵潜の雷撃で大破。その後、内地に帰還するが 本格的な修理はされず呉港外・鍋海岸に係留されたが20年7月24日、28日の米艦載機による呉空襲で多数の命中弾・至近弾を受け着底し完全に戦力を失った。

大破着底状態ながら終戦まで残存した歴戦艦であった。



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太平洋の海鷲

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