61式戦車は戦後十数年の技術的空白期間を経て制式化された国産第一世代の戦車である。
戦車の国産方針は早くに決定されており自衛隊発足直後の昭和30年6月には防衛庁長官の開発指示が出されている。米軍からは第二次大戦型のM4やM24の
供与が行われていたがアメリカでは大戦末期にナチスドイツ軍の「ティーガー」や「パンター」に対抗する為のM26「パーシング」が配備されており戦後は
改良型のM46、更に性能を向上させたM47など90mm砲を搭載した戦車が登場していた。M4やM24は旧軍戦車をはるかに凌ぐ性能を持っていたが
自衛隊発足時には早くも旧式化していた事は明白であった。
陸自においてもM47の導入が考慮されたと思われるが最終的に国産化の決定がなされたのはM47の米軍への配備が優先された事とM47 など米軍戦車は重量が重過ぎて日本国内の運用に支障があると判断された為の2点であろう。もうひとつ考えられるのは将来に向けて少しでも早く戦車国産化の スタートを切っておきたい、という願いがあったのであろうか・・・。
当初、国産戦車は日本の地理的要因から小型軽量が求められ重量は25t級で考えられていた。”戦車は軽いほうが良い”という旧軍以来の思想が戦後に至るまで 継承されていた。火力や防御力など戦車にとって第一義的な要因より鉄道輸送や道路事情など第二義的な要因が重視されたのであった。しかし、90mm砲を 搭載するには25tで纏めらる事は不可能であり要求重量は30tとなり最終的に61式戦車は35tで完成する事になる。 搭載する戦車砲も初めは75mm砲が考えられていたようだ。しかし、朝鮮戦争で猛威を奮ったソ連製T34/85に対抗するには75mm砲では全く役に立たず 90mm砲の搭載は至上命題となっていた。軽戦車であるM24はおろか76mm砲搭載のM4でもT34/85には劣勢を強いられたのである。もちろん、当時は100mm砲を搭載したT54が出現しており 世界の趨勢は100〜105mm戦車砲の時代が迫っていた。国産戦車も出来れば105mm砲の搭載が望ましかったが技術的な問題や予算上の制約から90mm砲が 選択されたと思われる。61式は計画段階から戦後第一世代戦車として誕生する宿命を背負っていた。
同時期に諸外国はT54に対抗する第二世代 戦車の開発が進められていたのである。61式は当初から旧式化していた、というマイナス的評価もあろうが戦後の空白期間と当時の技術水準を考えれば国産化の 英断を評価すべきであろう(因みに米軍のM60、西独のレオパルトは1956年頃から開発がスタートしている)。全体試作で計4両の試作車両が作られた
第一次試作では思想が異なる2両の試作車両が作られた。
・試作第1号車 STA-1
・試作第2号車 STA-2
61式戦車開発に大きな影響を与えたアメリカ製戦車駆逐車M36
STA-2は転輪6個でやや高い車高であったが車内容積に余裕が生まれ無理のない実用的な設計でSTA-2より高い評価であった。STA-2は全体的に米軍の 戦車駆逐車M36の影響を強く感じさせるスタイルである。M36はよく纏まったスタイルであり90mm砲やカウンターウェイトのアレンジなど61式の開発や運用思想に 大きな影響を与えた。外観も61式戦車の祖先を思わせる。
ところでSTA-1ではトルクコンバーター、ポンアティックがエンジン出力を発揮させる為には能力不足と判断されたようだ。
STA-2も当初はこれらを装備していたが途中で戦時中に作られた旧軍の四式中戦車用の変速機に変更されている。STA-2もエンジンは水冷式ディーゼルが
搭載されていた。STA-1,STA-2共に光学式測距機取り付け部はM47と同じく砲塔にあった。
61式は第一次試作のみの予定であったがSTA-1,2の2両だけの評価ではとても生産に入る事は無理で第二次試作が行われる事になった。
・試作第3号車STA-3
第二次試作車両はSTA-2をベースに行われた。
エンジンは当初から空冷ディーゼルが搭載された。変速機は機械式に改められた。また、第一次試作では砲塔にあった光学式測距機がキューポラに移設されている。
これは防御上の観点からである。61式の試作では変速機・起動輪が車体前方にある前輪駆動方式であり量産型も同じであった。これは旧軍以来の伝統だが車高が高くなる
欠点を抱えていた。また、変速機整備用の開口部が被弾確立の高い車体前部にある事は好ましくはなかった。
39年に渡る生涯を通じて大きな改良がされなかった61式戦車だが赤外線暗視装置や煙幕弾発射機の追加装備など小さな改修は行われた。
昭和30年代に国産戦車を開発した意義は高く評価出来るが90mm砲搭載の61式戦車が制式化された時期には諸外国は100〜105mm砲搭載の戦後第二世代 戦車の時代に入っていた。61式が第二世代に属するT54やレオパルト、AMX-30などには対抗出来なかったであろう事は残念であるが事実として認めざるを 得ない。また、鉄道輸送などを第一義的に捉えた結果、M47に比べ10t以上も軽量化されたが装甲が犠牲になった(61式の装甲厚は公表されていないがM47 より薄い事は確実)。車高が高い事や被弾する可能性が高い車体前面に開口部があるのも弱点だ。61式は火力ではM47と同等以上だが防御力では明らかに不利 である。
61式戦車 VS T34/8561式戦車の最大のライバルはやはりT34/85だったと考える。T34/85は大戦後もソ連圏諸国で長く使用され多くの実戦に投入された。
それでは61式とT34が戦ったらどのような結果になったのであろうか・・・?T34が搭載したD-5型85mm戦車砲は1000mで約100mmの 装甲を貫通出来た。61式の装甲厚は非公表であるが砲盾部で90mm、車体前面は70mmぐらいであろう。61式が搭載した90mm砲の性能もあくまで推測だが 1000mで120〜130mm程度ではないだろうか・・・?T34/85の装甲厚は砲盾部で90mm、車体前面で75mm。火力と装甲厚だけで単純比較 すれば61式とT34/85はお互いに油断出来ない強敵であると言える(※カタログデータ通りの単純比較、砲弾の種類や傾斜角度は考えないで)。
前記したが61式は前輪駆動方式で変速機整備用の開口部が車体前面にあり防御上の欠点となっていた。T34は大戦中に開発されたが既に後輪駆動方式となっていた。 しかし、T34も車体前面に前部機銃やドライバーズハッチの開口部があった。この点は両者に共通した泣き所であったのである。
61式の最高速度は45km/h、航続距離は非公表だが250kmぐらいか。T34/85は最高速度55km/h、航続距離は360km。機動性では
T34に分がありそうだ。実際、映画「ヨーロッパの解放」や「戦争のはらわた」でもT34の優れた機動性を目の当たりにしたものだ。もし、実戦で
戦えば61式にとってT34/85は相当に手強かった、と思うのだが。